
1.「前より静かになった気がする」から始まる、となり町へのまなざし
廿日市で暮らしていると、大竹は「ただの隣の市」以上の存在に見えてきます。
国道2号を西へ走り、小瀬川を渡るあたりで、景色がふっと変わる感じがある。右手にはコンビナートの煙突やタンクが並び、夜になると小方港のほうに工場の灯りが浮かび上がる——そんな風景を、きっと何度も目にしてきたはずです。
買い物で大竹駅の周辺を通ったり、仕事で工場方面に向かったりするたびに、ふと気になることがあります。
「この町、人が少しずつ減ってきたのって、いつ頃からなんだろう?」
ニュースや本では「人口減少」という言葉をよく耳にしますが、
自分たちが普段使っている道や店、学校がある「大竹」という場所に当てはめて考えると、急に身近で、少し胸がざわつくテーマになります。
この記事では、
「大竹市の人口は、いつから減り始めたと考えられそうか」を、きっぱり断言するというよりは、
統計の数字をざっくり押さえながら
大竹の風景や暮らし
そして周辺市町村や、同じくらいの人口規模の市との比較も交えながら
一緒に「たぶんこのあたりだろうな」と考えてみる、そんな“考察メモ”として書いてみます。
2. 大竹市の人口が減り始めたタイミングを、国勢調査と他の市とあわせて眺める
まずは、ざっくり数字の確認からです。
大竹市の人口推移を国勢調査で追っていくと、
昭和50年(1975年)ごろの約3万8千4百人が、人口のピークだったとされています。(大竹市の人口推移)
その前後を、イメージしやすいように並べてみると、たとえばこんな感じです。
1970年:およそ3万7千6百人
1975年:およそ3万8千4百人(ここが“山の頂上”)
1980年:およそ3万6千人
1985年:およそ3万4千7百人
1990年:およそ3万3千2百人
2015年:およそ2万7千8百人
2020年:およそ2万6千人強
数字だけを素直に眺めると、
「1975年ごろを境に、人口がじわじわ減る流れに入っていった」
と考えるのが自然そうです。
ピーク時と2020年ごろを比べると、
およそ1万2千人、率にすると3割強ほど少なくなっている計算になります。
グラフにすると、1975年をてっぺんにして、そこから40年以上「なだらかな下り坂」が続いているイメージです。
周辺市町村と比べると、いつ減り始めたのか
となりの廿日市市を見てみると、
人口は2020年時点で11万人台と、大竹のおよそ4倍の規模があります。
人口の動き方も、大竹とは少し違います。(廿日市市の人口について)
おおまかに言えば、
廿日市:2000年代に入ってからようやく人口増が落ち着き、最近になって微減傾向が見え始めた
大竹 :1970年代半ばにはすでに“下り坂”に入り始めていた
という時間差があります。
お向かいの岩国市も人口は10万人を超え、大竹より大きく、
減少のスピードも比較的ゆるやかです。(岩国市の人口事情)
「周辺の市では、ここ20年ほどで減少傾向がはっきりしてきた」のに対して、
大竹はそれよりも一足早く、1970年代半ばから“下り坂”を歩き始めていた
——そんな位置づけが見えてきます。
高梁市・宮若市という「同じくらいの規模の市」と比べてみる
次に、大竹と人口規模が近い、全国の2つの市を眺めてみます。
岡山県高梁市
福岡県宮若市
どちらも、いまの人口が2万6千人前後で、大竹市とほぼ同じくらいの「中規模の地方都市」です。
ただし、「いつから減り始めたか」は、それぞれずいぶん違います。
高梁市の場合
人口のピークはおおよそ1950年ごろの7万5千人台とされ、そこから一貫して減少が続いてきました。
1950〜1970年代にかけて大きく減り、それ以降も減少傾向は止まっていません。
2020年ごろには3万人を切る水準となり、ピーク時の半分以下の規模になっています。
宮若市の場合
総人口は1990年(平成2年)ごろの3万2千人台がピークとされ、そこから減少に転じました。(宮若市の人口関連記事)
2020年ごろには2万6千人台となり、ピークから2割弱ほど少なくなっています。
こうして並べてみると、
高梁市:1950年ごろがピーク(戦後わりと早い段階で減少へ)
大竹市:1975年ごろがピーク(高度経済成長を経て、工業都市としての勢いが一段落したころ)
宮若市:1990年ごろがピーク(平成に入ってから本格的に減少局面へ)
同じくらいの人口規模でも、
「減少への転換点」が世代ごとにずれているのが分かります。
大竹は、この3市のちょうど真ん中あたりのタイミングで「山の頂上」を越えたまち、とも言えそうです。
3. 1970年代半ばから何が変わった?——大竹と他のまちを重ねて考える
では、どうして大竹は1970年代半ばから人口が減る方向へ傾いていったのか。
ここからは、数字をヒントにしながら、大竹の風景や、周辺・同規模のまちとの共通点・違いを重ねて“仮説”を立ててみます。
① コンビナートのまちが「人を呼び込む時代」から「落ち着く時代」へ
大竹といえば、小瀬川の河口から瀬戸内海沿いに広がるコンビナートのイメージが強いまちです。
1960年代には石油化学コンビナートが整備され、煙突やプラントが次々と建ち、全国から人や仕事が集まってきた時期があったと考えられます。
その頃は、
工場勤務の人
その家族
関連企業やサービス業の人
が一気に増え、「人を呼び込む時代」だったのでしょう。
ところが1970年代半ばになると、日本全体でも高度経済成長が一段落し、
大竹のコンビナートも「一気に膨らむフェーズ」から「落ち着いていくフェーズ」へ移っていったと想像できます。
これは、炭鉱や山間部の産業の縮小とともに、長い時間をかけて人口が減ってきた高梁市とも、少し似た構図かもしれません。
一方で、宮若市は1990年まで人口が増え続けていたことを考えると、
工業都市といっても、地域や立地によって「人を呼び込む時代の長さ」が違うことが見えてきます。
大竹は、その中間あたりで、
「コンビナートの成長による人口増」が一段落したタイミングが、1970年代半ばだった——
そう考えると、数字の動きと現地の風景が、ある程度つながって見えてきます。
② 家族のかたちが変わり、「子どもの数」が少しずつ減っていく
大竹市の資料を見ると、
ピークを迎えた1970年代から2010年代にかけて、1世帯あたりの人数は3.5人台から2.2人台へと縮んでいると整理されています。
これは裏返せば、
「子どもが3〜4人」という家庭が少なくなり
「1〜2人の子ども」や「夫婦のみ」「ひとり暮らし」が増えた
という変化が、じわじわ続いてきたということでもあります。
高梁市や宮若市でも、
高齢化と世帯規模の縮小が進んでいる点は共通していますが、
高梁は「すでに何十年も人口が減り続けてきた結果としての高齢化」、
宮若は「1990年以降の減少がじわじわ効いているタイプの高齢化」とも言えそうです。
近所の小学校の児童数が昔より減ったり、
商店街で見かけるベビーカーの数が以前より少なく感じられたり——。
そういった小さな変化の積み重ねが、そのまま人口減につながっていると考えると、
数字のグラフが、少し“手触りのあるもの”に変わってきます。
③ 「大竹で働き、別の町に住む」という選択肢が増えた
大竹は、廿日市や広島市、山口県側の和木・岩国とも、鉄道と国道2号でつながっています。
通勤・通学の足が整ってくると、
大竹のコンビナートや工場に勤めつつ、廿日市や広島市に住む人
逆に、大竹に住みながら岩国側へ通う人
といった“行き来のある暮らし”が増えていきます。
人口統計では、「どこに住民票を置いているか」でその人のカウント先が決まります。
その意味では、
「大竹で働き、別の市町に住む人」が増えるほど、
大竹市の人口は減って見えやすくなる
という側面もあります。
最近の分析では、
大竹では転入と転出がおおむね拮抗しつつある一方で、
人口減少の主な要因は、出生数より死亡数が多くなる“自然減”に移ってきているとされています。
宮若市でも同じように、自然減が中心的な課題になりつつあります。
つまり、
「住む場所の選び方」が広がったこと
「そもそも産まれてくる子どもの数が少しずつ減っていること」
この二つが、1970年代半ば以降の長い時間をかけて、
大竹の人口を少しずつ押し下げてきた、と考えられそうです。
4. 「減っている町」だからこそ見えてくる、大竹のこれから
ここまで見てきたように、
データやまちの歴史をあわせて眺めると、
大竹市の人口の“山の頂上”は1975年前後にありそうだ
そこから先の数十年をかけて、
コンビナートの成熟・家族の小規模化・暮らしの行き来の拡大が重なりながら、
大竹の人口は少しずつ減る方向へ向かってきた同じ2万6千人規模でも、
高梁は1950年ごろ、宮若は1990年ごろがピークと、減少のスタート位置が違う
という姿が浮かび上がってきます。
ただ、「人口が減っている町=良くない町」という話では、まったくありません。
大竹には、
小瀬川や三倉岳の自然
阿多田島や工場夜景といった“ここならでは”の景色
コンビナートで働く人たちの日常と、静かな住宅地の暮らし
そうした「ぎゅっと詰まった風景」が、今もたくさん残っています。
人口が増えていた時代と違って、
これからは「人が少しずつ減っていく」ことを前提に、
空き家や空き店舗をどう活かすか
子どもが少ないからこそ、一人ひとりの育ちをどう支えるか
高齢化が進む地域で、移動と医療・福祉をどう守るか
そういった問いを、じっくり考えていくフェーズに入っているのだと思います。
これは大竹だけでなく、高梁や宮若、そして周辺の廿日市・岩国にも共通するテーマです。
廿日市に住む一人として、
国道2号で小瀬川を渡る瞬間に見える煙突のシルエットや、
夜の小方港から眺めるコンビナートの灯りを見るたびに、
「この町は、これからどんな“減り方・残り方”をしていくんだろう」
と考えるようになりました。
大竹市の人口がいつから減り始めたのか——
その答えは、おおよそ1970年代半ばあたりにありそうだ。
でも、本当に大事なのは、その“下り坂”をどう歩いていくか、
そこに自分たちがどう関わっていくか、なのかもしれません。
これからも、数字と風景、そして他のまちとの比較も行き来しながら、
となり町・大竹の今とこれからを、ゆっくり言葉にしていけたらと思います。